赤坂寿司物語〜失恋OL 夜中の遭遇編〜 vol.2

 振られた。5日前、なんの前触れもなく振られた。や、あたしが気づかなかっただけで、彼の中でその決断を下したのは、最近の話ではなかったようだ。ただ、気持ちが離れてしまったことを悟られないよう、良くも悪くも最後まで優しい彼でいてくれたおかげで、5日前の出来事が青天の霹靂となってしまったのだ。部屋の電気もつけず、何をするわけでもなくベッドの上でただ横たわっていた。せっかくの休日なのに、自室で時間を溶かすこの感覚は、それこそ彼と付き合う前ぶりのもののように思える。レースのカーテンから差し込む西日に照らされた時計の針は、もうすぐ6の辺りを指そうとしていた。1日中まともな思考を巡らせなかった、半ば職務放棄中の頭でもさすがにそろそろ夕飯の準備でもしないと、と思うことはできるようだ。重い半身を起こし、グッと伸びをする。そして、ここ数日で何百回何千回と抱いた淡い期待をまだ諦めたくないあたしは机の上に放りっぱなしにしていたスマホに手を伸ばした。

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***

「ごめん、別れよう」

あの日、そう告げてきた彼の声、言葉。今さっき起こったことのように鮮烈で、トゲトゲしくて、でも肝心の彼の表情だけがよく思い出せないシーンばかりなんども繰り返される。

あの日は付き合って3年目の記念日だった。昼過ぎに日本橋駅で待ち合わせた。遥か頭上に昇った太陽がギラギラと地面を照りつけ、じりじりとした暑さであたしと彼を溶かし尽くしてしまいそうな天気だった。記念日だからって何かいつもと違う特別な日、なんてこともなかった。去年彼と一緒に来た金魚のアクアリウムにまた行って、綺麗だね、なんて去年と同じ会話をなぞる。幻想的な空間を巡ったあとは、特に行き先があるわけでもなく街をぶらぶらと歩く。ただ、季節が季節だ。いつしか暑さを凌ぎたい一心でどちらからともなくいつもの洋食屋へ向かっていた。

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ディナータイムより少し早い夕方頃で人はまばら。とりとめもない会話をしながら食事をし、食後はゆったり飲み物片手に過ごすのがお気に入りのひと時だった。いつもならスパークリングワインを頼むが、その日のあたしはクリームソーダを頼んだ。炭酸が喉をパチパチ刺激する。この時まであたしは3年ってあっという間だったし、きっと明日からも変わらずこの日常が続くんだろうな、と静かな感慨に浸って1日を終えるんだと思っていた。

でも、彼が全くコーヒーに口をつけず、どこか上の空だったのにあたしが気付くまでそう時間はかからなかった。どうかした?体調悪くなった?って声をかけ、ようやく口を開いた時に出た言葉。

思いっきり頭を殴られ、ぐわん、と視界が歪んだような気がした。手汗が滲むのに、身体は震える。決して店内の空調のせいだとは思えなかった。口火を切ってからの彼の弁明はあまり覚えていない。あたしの様子を恐る恐る伺いながら、でも着実に言葉を紡ぐ様子が、リアルじゃなかった。まるで、テレビ番組を見ているような、そんな感覚だったのだ。一方的に流れてきて、私の中に留まらず、スッと抜けていく。理解するしない、とかではなく、予め用意されていた結末をただ受け入れる他なかった。断片的にしか彼の言葉を思い出せないが、あたしが悪いとか嫌いになったとかではなく、でも単純にあたしより大事にしたい人ができた、というようなことを言っていた気がする。

「人の気持ちなんていつか必ず変わるものって分かってたつもり。だから、いつかこんな日が来てもおかしくはないなって思っていたけど。でも、でもさ。よりによって3年目を迎えた日に、言わなくてもいいじゃん、バカ。せめて、心の準備をさせてよ」

そう笑い飛ばす勢いで言ったつもりだった。でも、実際はうまく笑えなかったし、声も震えてしまった。クリームソーダに浮かぶバニラアイスはでろん、と形悪く溶け、グラスの中がどんどん濁っていく。彼は、ひたすら謝っていた。謝られても、なんにも変わらないのに。でも、繰り返し謝る姿を見ているうちに、本当に彼が心の底からそうしたくてしているんだろうな、っていうことが伝わってきて、あぁ、もう何をしても無駄なんじゃないかって、投げ出したい気持ちになった。自分の気持ちに嘘をつきたくない誠実さが、別れたいと言った彼の言葉をより強烈にさせ、あたしの心臓を執拗に刺す。こんなの、引き止める方が間違っているし、わがままをいう余地もない。あたしにできることは一つしかなかった。

「……もういいよ。その人、すごく素敵な人なんだろうね。なら仕方ないかな!3年間ありがとね。あたしのこと嫌いになったんじゃないなら、これからは友達として飲みに付き合ってよ」

精一杯の強がりだった。でも、これが正解だったんだと思う。彼は私の言葉を聞いた途端、安堵の表情を浮かべた。そして、ありがとう、と小さく呟いた後、とうに冷えてしまったコーヒーを一気に飲み干した。気づけば窓の外はすっかり暗くなっていた。いつものように「駅まで送るよ」って言ってくれたけど、断った。店を出たら、もうあたしたち、本当に終わりなんだ。あっけない。そんなことをぼんやり考えながら、彼のあとに続いて店を出た。途端、生ぬるい風が足に、腕にまとわりつく。きっと夏の夜に、この風に撫でられるたびに今日のことを思い出すんだろうなぁ。彼は立ち止まり、あたしの方へくるりと振り返った。そして、いつものような優しい笑顔で「じゃあ、またね」と告げ、小さく手を振った。彼の姿が次第に小さくなっていき、いつしか視界から消えていた。あたしは一人、夜の街に取り残された。

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新着メッセージがあります。スマホのディスプレイに浮かぶ文字を目で拾うたびにどくん、と身体中が脈打つ。同時に、馬鹿だなぁ、そんなはずないんだからいい加減諦めなよ、と嘲笑するあたしもどこかにいた。部屋にはあたししかいないし誰かに見られているわけでもないのに、変に平静を装ってスマホのロックを解除する。そして、メッセージアプリを開く。画面の表示が転換するその刹那、せわしなく頭の中で何かが駆け巡る心地がする。パッとトーク画面があらわれ、一番上に表示されていたのは彼。……ではない。ナツキからだった。ナツキはここ1年近く会えていない、高校時代からの友人だ。ここ数日、彼以外からのメッセージであることを確認するたびにひどく落胆していたが、今回はナツキから連絡が来るなんて珍しい、どうしたんだろうという気持ちの方が大きかった。大学を卒業し、就職してからというものの、ナツキはだいぶ忙しい毎日を送っているようで、会える機会がめっきり減ってしまったからだ。トークを確認すると、こう書かれていた。

「今日暇?今からさ、会おうよ」

「私、美味しいもの食べてお酒飲んではじけたい気分なんだわ」

唐突な飲みの誘いだった。こんなこと、大学生の時でもめったになかった。しかも、ナツキから誘って来るなんて、いつぶりの話だろう。幸いにもあたしは暇だったし、まさに夕飯の準備をしようとしていたので絶妙なタイミングだった。ずっと沈んでいた気分が少しフワフワする。

「久しぶり、運良く暇してたとこ。いいよ、飲もう」

「どこで待ち合わせる?てか、ナツキ、今日仕事だった?」

送信すると、すぐに既読がつく。これも珍しい。

「よっしゃ、んじゃ決まりね」

「さっきまで仕事してたよ〜取引がスムーズにまとまったから早く上がれたの!」

「今虎ノ門にいるけど赤坂見附に移動するつもり、レイの最寄りって丸ノ内線沿いでしょ?」

赤坂見附なら確かに乗り換えなしで行けるからとてもありがたい。

「そうそう、東高円寺!よく覚えてたね。」

「赤坂見附なら、遅くても19時頃には着くと思うけど、それで良い?」

すぐさまナツキからオッケーのスタンプが返ってきた。となると、ゆっくりしている暇はない。急いで準備しなきゃ。姿見にはボサボサの髪にだるっとした部屋着を着ているあたしが映っている。我ながら酷い身なりだ。残り30分で外出できるくらいの格好にならないと。あたしは洗面所に向かい、顔を洗うところから始めた。

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18時55分。赤坂見附駅に着いた。電車を降りて10番出口に出ると、思っていたより賑やかな雰囲気の街だな、と思った。今まで赤坂見附に行く機会がなかったから、勝手に堅苦しい街、何にもない街ってイメージを持っていたが、そんなことはないようだ。電車の中でなんとなく赤坂見附にあるお店を調べてみたら、飲み屋が結構点在しているようで、今夜の飲みに困ることはなさそうだった。ナツキはこのあたりのお店に詳しいのかな。さっきも仕事で虎ノ門にいたって言っていたし、きっと赤坂見附にもよく来ているんだろう。絶え間なくあたしの周りで人が往来しているが、これから飲みに繰り出すのであろうサラリーマンを先ほどから何度も見かけている。

さすがにこの時間ともなると日は暮れ、風が熱を帯びなくなったから呼吸がしやすい。すぅっと大きく息を吸い、ふっと吐き出す。肩の力も一緒に抜け、そこで初めて身体が強張っていたことに気づく。気分が塞ぎ込むときは部屋にいるんじゃなくて、こうやって外の空気に触れたほうが良いのかもなあ、と思った頃に、ナツキが階段を上って10番出口に現れた。

「私のが先に着くかと思ったけど、レイの方が先だったか!ごめんね待たせちゃって」

仕事終わりとは思えないほど、ぱあっと明るい笑顔なナツキ。いつ会っても変わらないこの笑顔にホッとする。

「さっき着いたばっかりだからヘーキ、気にしないで。それにしてもびっくりしたわ、ナツキが突然飲みに誘ってくるなんて」

「いやぁ、仕事が早く終わった夏の夜は派手に酒飲みたくなるじゃん?そういうこと」

そういうことなら仕方ないね、とあたしも適当に返しつつ、おかしくなって笑う。

「ってなわけで、レイと会うのはなんだかんだ1年ぶりだし、今日は食べたいものを食べて飲みたいものを飲む夜にしよ、まずは焼き鳥ね!」

ナツキはあたしの返事を待たず、先陣切って赤坂の街へ歩みを進める。どうやらナツキの中で行きたい店がもう決まっているらしい。今夜は全部ナツキに任せよう。そう思い、あたしはナツキについて行った。

***

居酒屋を2軒ハシゴした時点で23時をまわっていた。宣言通り、ナツキは行く先々で串焼きや煮込みを片手にビールをガンガン飲んでいた。彼女は見た目に反して酒豪なのだ。あたしもそこそこイケる口なので、梅酒ロックをどんどん流し込む。1年ぶりに会うともなると、互いに積もった話があるだろう、ということでナツキはこの1年間の穴を埋めるかのように仕事のことからプライベートのことまで饒舌に語る。あたしも彼女もその時点でだいぶ酔いが回っていたから話の内容はあまり覚えていないが、お腹の底から笑ったことは確かだった。ただ一つ、1軒目でも2軒目でもナツキがあたしの近況にほぼ触れてこなかったことに少し違和感を覚えた。

 

「やー、結構飲んだね」

会計を済ませ、店を出たあたしはナツキに言う。空気はすっかり夜のものに変わっていた。軒を連ねる飲食店の匂いがまざりあう。この匂い、俗な夜を感じさせるから、嫌いじゃない。

「いやいや、夜はこれから。さっきまでのは前座ですよ、レイさん」

ナツキはまだ飲むつもりのようで、だいぶ機嫌がよさそうだ。

「なんだかんださ、しっかりお腹を満たすようなもの食べてないからさ、ちょっとここらで良いもの食べてお腹満たしてこーよ」

言われてみれば、2軒ともお酒がメインでおつまみ程度のものしか食べていない気がする。3軒目はお酒をそこそこに、ナツキの言う良いものを食べて〆るのはアリかもしれない。

「良いものというと?」

あたしがそう尋ねると、ナツキは待ってました!と言わんばかりの勢いで答えた。

「お寿司以外ないでしょ!!」

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「え、お寿司?こんな時間に寿司屋って営業してるの?」

あまりにも想定外の返事だったもんだから、あたしは思わず聞いた。

「駅のすぐ近くに夜遅くまで営業してる寿司屋があるの、日本酒も飲めるしいいとこだよ〜」

まだ飲むんかい、というあたしのツッコミがナツキに届いたかは分からない。彼女が話しながら駅の方へ歩き始めたからだ。深夜までやっている寿司屋があるということをあたしは今初めて知った。でも、確かに寿司は〆にうってつけの選択肢のようにも思えた。

 

「ん、着いた!」

歩き始めて5分ほど経った頃、ナツキはある店の前で歩くのを止めた。『板前寿司江戸』。入り口に掲げられた看板にはそう書かれていた。木目基調の外装で、大きな提灯がぼんやり店先を照らしている。

「へぇ、結構良さげなお店なんだね。ナツキ、前にここで食べたことあるの?」

聞くと、ナツキは首を縦にふる。

「この間はランチの時間帯だったけどね。美味しいマグロの握りがお得に食べられるんだよって聞いて食べに来たの。そしたらすごく面白い店だったから、次来る時は誰かを連れてゆっくりしたいなって思ってて。だから、今日の夜のメインはここね!」

お、面白い店? 寿司屋を紹介するのに面白い、という言葉が出てくるとは思っていなかったので謎が深まる。ただ、OLごときが足を踏み入れられない敷居の高い寿司屋だったら……という心配が少し和らいだような気がした。面白い店で食べる深夜の寿司。今すぐにでも試したい気持ちが一気に溢れてくる。

「いいね。じゃ、お店に入ろっか」

ナツキにそう告げると、彼女はうんうん、と満足げに頷いた。

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店に入ってすぐにナツキが店を面白い、と形容したワケが分かった。まず、内装が凝っている。板前寿司と言えば江戸だから、江戸時代をコンセプトにしているのだろう。突然ワープした気分だ。

サンダルを靴箱に入れ、店内に上がる。すると、店員さんの威勢の良い声があたしたちを出迎える。なんだか、お祭りの夜みたい。ちょっとわくわくする。店内にはこの遅い時間にもかかわらず、お客さんがちらほらいた。でも、この人数が程よい静けさと賑わいを演出しているんだと思うと、この人数がちょうど良いんだろうな、なんて考えていた。

「カウンター席に座らない?」

とナツキに提案され、断る理由もなかったためカウンター席に座った。カウンター席には先客が1人いた。ちらり、と横目で見てみると、スーツ姿であたしとそんなに年が変わらなそうな男の人だった。若い人がこの時間に一人で寿司屋ってすごいな。席が空いていたのであたしはその男の人と席を1つあけて座った。

 

「好きなもの頼んでいいよ、ここは私が全部出すから」

席に着くやいなや、ナツキはいきなりそんなことを言い始めた。さっきまで楽しそうに酔っていたのが嘘のように、あたしの心を見透かすようなまっすぐな目を向けてきたのだ。その視線に覚えのあるあたしは少しドキッとした。

「え、いきなりどーしたの。別に今日はあたしの誕生日でもないよ」

ナツキはあたしが彼と別れたことを知らないはずだし、別れたことを隠す理由もない。でも、彼女のまっすぐな視線はそれらを見抜いているように思えた。どうしてかは分からないが、そんな彼女の視線を受け流したかった。咄嗟に軽く笑いながらそう言い、誤魔化すかのようにメニューに目を向けた。が、彼女は続けて言う。

「誕生日じゃなくても、私が出してあげたいから出すの。私の勘の鋭さはレイが一番知ってるでしょ」

……やっぱり。どうやら彼女は、あたしを飲みに誘った時からもう全て知っていたようだ。まっすぐこちらを見てくる時は、いつもそうだった。

「……ほんと、ナツキって昔から察しが良いよね。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

***

「そっか……別れたんだね」

目の前にいる板前さんに、食べたい握りを一通り注文した後、あたしは5日前に起こったあの出来事をなるべく淡々と話した。

「でもなぁ、まさかこのあたしが振られるなんて。笑っちゃうよ」

言葉を慎重に選んであたしを励まそうとするナツキに、これ以上心配をかけたくなかった。だから、努めて明るくそう言い放った。起きてしまった事はもう変えられないから、あとはあたしが笑って話せるくらいにならないといけないって。でも、ナツキからの言葉はちょっと意外なものだった。

「や、ほんと笑うしかないよ!人生何があるかわからんよね。やー、仕方ないっちゃ仕方ないよね今回の話も。彼氏さんの気持ちが変わっちゃったんなら、もうレイにできる事って何もないし」

ちょっと拍子抜けした。さっきまでの神妙な面持ちから、そんな身も蓋もない一種の諦めのような言葉が飛び出てくるとは思わなかったのだ。ただ、必死に慰められるよりもそっちの方がスッと胸のつかえが取れたような気がした。

「だよね……無駄なあがきをしないで素直に別れて良かったんだよね。彼の気持ちはもう固まっていたもん。綺麗に終わらせられて、これで正しかったんだよね」

ナツキに投げかけつつ、これはあたし自身に言い聞かせていたのだと思う。彼を想う気持ちが残っているのに別れという選択を受け入れた事が正しかったのか、後悔しないのか……分からなくて、それが不安でしょうがなかったんだ。

 

振られた。5日前、あたしは振られたんだ。

 

この時になって初めて、別れを受け入れたんだと痛感した。別れてから今日まで、心のどこかでありもしない幻想にすがりついていたことを思い知らされた。冗談でもドッキリでもなく、現実なんだと認めた瞬間、世界の輪郭が失われた。思えば別れ話をした時から、一度も泣かなかった。でも、今になって面白いほど涙が溢れてくる。ナツキはただ、うんうん、と言いながらハンドタオルを手渡してくれた。あたしはありがとう、と微かな声で呟き、ハンドタオルで涙をぬぐった。

そんなタイミングで注文していた握りが完成したようで、板前さんが声をかける。

「お待たせしました、ご注文の握りになります。……お節介かもしれませんが、古い恋の終わりは、新しい恋の始まりだと僕は思いますよ」

どうやら板前さんにも話を聞かれていたようだ。お節介だと彼は言うが、その言葉があたしには温かくて嬉しかった。いい大人なのにみっともない部分を見せてしまったな、と少し恥ずかしい気持ちもあったがそれ以上にお客さんのことをよく見ているんだな、と驚く気持ちの方が大きかった。

「ありがとうございます。いえ、お節介だなんてとんでもない。人生の先輩にそういっていただけると、前向かなきゃなって思います」

大きなしゃもじに乗せられて提供された握りを受け取りながらあたしはそう返事をした。気付けば店内の客はあたしとナツキ、そして一つ隣の席に座った男の人だけになっていた。男の人は、ずっと日本酒を飲んでいるようだ。思えばあたしたちが席に着いてから、定期的に板前さんに声をかけていた気がする。あの注文は全部酒のお代わりだったのかもしれない。

「若いんですから、まだまだこれからですよ。寿司屋の板前っぽいことを言わせていただくと、魚には、食べると気分の落ち込みを抑えるオメガ3脂肪酸っていうのが含まれているんです。特に、お客さんが頼んだ梅雨イワシとサーモンなんかは豊富に含んでます。だから、握りをたくさん食べて前向きになって帰ってくれたら嬉しいですよ。」

板前さんなりの励ましなのだろう。型にはまった接客とかではなく、ちゃんとした対話だった。

「そうなんですね!初めて知りました。握りって、まるで失恋の特効薬みたいですね。美味しいだけじゃなくって気持ちも落ち着かせてくれるなんて、あたしにうってつけです」

板前さんは優しく微笑み、頷いた。そして、

「ごゆっくりどうぞ」

と声をかけてくれた。腕時計の針は0時半を指そうとしていた。ごゆっくりどうぞ、とはいえ、もうそろそろ閉店の時間じゃないの?と思っていたら

「あと2時間半はここに居られるね。気の済むまで食べてって」

とナツキは頼もしげに言う。あと2時間半というと、3時まで営業していることになる。そんな遅くまで営業しているとは思っていなかった。それなら当分時間を気にせず過ごせそうだ。

「あたしのお腹がいっぱいになるのが先か、ナツキの財布が空っぽになるのが先か……」

「レイの良心を信じてるから!」

ふふっと笑い合った。気丈に振る舞うとかではなく、この時は自然と冗談を言えた。板前寿司に入店してから、泣いたり笑ったり感情が忙しくなっていた。でも、そのおかげで明日からどう生きていこうか、道筋が見えてきた気がする。握りを口に運ぶ。咀嚼するたびに甘みが広がる。

「あ〜……美味しい」

思わず溢れる。ナツキもちゃっかり横からあたしの握りをとって食べる。そして、したり顔で言うのだ。

「やっぱり〆はこうでなくっちゃ」

***

食べることに集中してしまい、いつしかあたしとナツキは言葉を交わさなくなった。なんなら、ナツキはうとうとして、今にも眠り始めそうだった。でも、あたしはこんな雰囲気が嫌じゃなかった。美味しい握りを食べて、何かに急かされることなく過ごせるこの空間は、とても居心地が良いからだ。すると、不意に声をかけられた。

「〆の一杯に、どうです?僕のお気に入りなんですよ」

一瞬、誰から話しかけられたのかわからなかった。けれど、目の前にいる板前さんの声ではなかった。となると、一つ隣の男の人が声の主であることは明らかだった。

「え、あの、いいんですか?」

あまりに急な出来事で、そんな返事しかできなかった。

「えぇ、僕のお気に入りの日本酒なんです。初めてこの店に来た時、板前さんに勧められた隠し酒で、飲んでみたら気に入っちゃって。たまにこうして一人で晩酌しに来てるんです」

男の人はそうにこやかに話す。ほのかに顔は赤く、リラックスしているように見える。相当飲んでたんだろうな。

「隠し酒なんてあるんですね。日本酒、普段はあまり飲まないんですけど、せっかくなのでいただいてもいいですか?」

初対面の客同士でこうやって会話するのもいいのかもしれない。夜も更けたこの時間、年齢も近そうな人が同じ空間にいるというだけで、なんだか親近感が生まれる。お酒が入っている、というのも助けになっていたのかもしれない。男の人はあたしの返事を聞くと、キラキラと輝く透明な液体をおちょこに注いだ。

「すごく夏らしさを感じるんですよ、これ」

そう言いながら男の人はあたしにおちょこを差し出す。夏らしさって、なんだろう。

「ありがとうございます、いただきます」

そう言って、くいっと飲んだ。すると、爽やかな酸味とそれを包み込むような甘さがふわっと鼻に抜けた。しかも、すごく飲みやすい。

「わ……これ、すごく美味しい。甘酸っぱい日本酒なんですね」

男の人は頷く。

「この酒の名前……えーっと、真夏の……?あれ、ド忘れしちゃいました、酔っ払いはこういうところがダメですね。ちょっと名前は忘れちゃったので教えられないんですけど、夏にしか販売されないお酒で、名前もその甘酸っぱさに由来してつけられたそうです。全部板前さんの受け売りですけど」

無邪気に笑いながらお酒の説明をしてくれる男の人が、なんだか可愛く見えた。本当にお酒を飲むのが好きなんだろうな。

「素敵なお酒ですね。これは確かに何度も飲みたくなるかも……」

「なかなか取り扱っているお店を見かけないんですよね、だから僕も飲みたくなったらここに来るんです」

気づけばナツキは完全に眠りに落ちてしまい、静寂な空間にはあたしと男の人の話し声だけが響く。

「あの、いつも一人で飲みに来るんですか?」

「そうですね、たまに気が向くとここに来ます」

「……初対面のあなたにこういうことを言うのもおかしな話かもしれないんですけど。もし、今度あたしが来店した時にまたお会いできたら、その時は一緒にお話してもいいですか?」

この時、あたしの中ではこの人ともっと話してみたい、という気持ちが生まれていた。今日はもう閉店の時間が近い。とはいえ、たまたま席が近く、たまたま言葉を交わして繋がった縁を今日限りのものだと考えるには勿体無いと思った。気づけば、そう口にしていた。無意識のうちに尋ねていたと言っても過言ではない。

「えぇ、もちろん。僕でよければ。」

男の人は、あたしの気持ちを知ってか知らずか、すんなりと快諾してくれた。

「ありがとうございます。……では、お先に失礼します。日本酒、ありがとうございました」

そういうと、あたしはナツキを起こし、男の人と連絡先の交換をすることもなくそのまま店の外へ出た。

 

――ちなみに、先ほど飲んだ日本酒が「ひと夏の恋」という名前であることをあたしが知るのは、もう少し先の出来事である。

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