寿司屋を語るなら深夜に行け!赤坂の夜物語

東京都港区赤坂。太陽がさんさんと街を照らしている間はスーツに身を包んだ人たちが絶え間なく往来しているが、月が空に鎮座する頃、街は新たな一面を見せる。ビジネス街だったそこは、大人たちが思い思いのひとときを過ごす街へと姿を変えるのだ。夜が更けていくと、一仕事終えた大人が集い、舌鼓をうつ逸品、美酒を心ゆくまで愉しみ、次第に闇夜の中へ人々は散っていく。

ネオン輝く眠らない街、赤坂。ここがこのお話の舞台だ。

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夜は短し歩けよなんとやら、なんて言葉を最近よく耳にする。どこぞの黒髪の乙女ではないが、夜になったら気の向くまま、心惹かれるものに導かれるように街を歩けばいいのだと私は思う。だって、夜は瞬く間に終わってしまう。どこに行こうか、何をしようか迷っている時間はない。目的地のない夜の街歩きはお店との出会いの連続であり、その店で人と出会うことも夜が結びつけたご縁、と呼べるのであろう。

その日の夜は赤坂で接待があった。丸ノ内線で赤坂見附駅まで揺られ、予め用意した店でつつがなくことが運ばれた。無事に接待を終えられたのは良いが、相手の機嫌を伺いながらの食事で満足に食べられるはずがない。店を出た後、開放感もあいまって空腹感を覚えた。時間を確認すると、まだ0時を少し回ったばかりだった。翌日は久々の休日だったし、お酒が飲みたかった。だから、今日は赤坂で飲み屋をハシゴしよう、とふと思いついた。これが私の夜の始まりだった。

とはいえ馴染み深い土地というわけでもなかったため、当てのお店は特になかった。とりあえず駅の近くにあるお店を探そうと思った。空腹だったこともあり、いきなり居酒屋に行くのではなく、まずは美味しいものをしっかりと食べられるお店に行きたかったのだ。歩みを進めると、早速ある店の前で足を止めた。

それが板前寿司江戸だった。

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こんな時間にも寿司屋ってやっているんだ。けれど思い返してみると、同僚が飲み屋でベロベロに酔っ払っているうちに終電を逃してしまい、ヤケになってその時間に開いていた寿司屋に入り、シメとして一番高いメニューを注文して食べた、なんて話していたことを思い出した。

「酒を飲むとさ、うまい魚が食いたくなるだろ?俺があの時終電を逃したのはうまい寿司と出会うための布石だったんだよ。」

同僚はこう話を締めくくっていたが、同じような人が世の中には多いらしい。深夜まで営業している寿司屋は実際多く、密かな人気を集めている。飲みの2軒目だったりシメだったりとしての使い方はもちろん、今の私のように遅くまで仕事をしていた人がご飯を食べに来ることが多いと聞いたことがある。板前寿司江戸もその中の一つだろう。

多くの人を魅了する夜中の寿司屋って、どんなものなんだろう?という好奇心が湧いてくるのを感じた。それに、寿司で始まる夜って、なかなか贅沢じゃない?私は一軒目を板前寿司江戸にすることにした。

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店内に足を踏み入れると、なんとも不思議な空間だった。もう少し早い時間に来店する時よりも客の数は少ないに違いない。けれど、店内は静まり返っているわけではなく、むしろ明るく楽しげな話し声が聞こえる。
どうやら、何人かの客は他の店で飲んでからここに来たようだ。程よく酔いが回っているように見える。かといって大衆酒場のように騒ぐ客もいない。上品に夜を楽しむ大人の集まる空間が、そこに広がっていたのだ。これが夜中の寿司屋の雰囲気なのか、と胸が高鳴る心地がした。

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一人だったし、ちょうど席が空いていたのでカウンター席に座ることにした。目の前にはその日仕入れた魚や旬を迎えた魚がずらりと並べられていた。何を食べようか決められず、メニューを見ては目の前に並ぶ魚を見る……を繰り返していると、誰かが私に声をかけてきた。

「今日は仕事帰りですか?」

メニューから顔を上げ、先ほどまで目の前で魚を捌いていた板前さんが声の主だということに気づいた。名札には「岡田」と書かれている。

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「はい、さっきまで接待だったんです。お腹が空いちゃって、美味しいものが食べたくなった時にたまたまここを見つけて。」
そうか、カウンター席だとこうやって板前さんと会話することができるのか。早い時間帯に別の寿司屋に行った時もカウンター席に座ったが、板前さんは終始忙しそうにしていて会話はしなかったなぁ。

「ちょうど何頼もうか迷っていたところだったんです。岡田さんの今日のオススメはなんですか?」
ここは魚のプロに聞いた方が特に美味しいものを食べることができるに違いない。しかも、板前さんと直接コミュニケーションが取れるのも、人が少ない夜中の寿司屋の醍醐味だと思ったのだ。

「お寿司メインでがっつり食べたいですか?それとも、お酒を飲みます?もし寿司メインで食べたいならイワシが一番オススメですよ。この時期のイワシは梅雨イワシと呼ばれ、脂がのっていて一番美味しいんです。酒のつまみが欲しいなら、羽立のウニを出しますよ。」
さすが板前さん。食事のシーン別にオススメを提示してくれた。梅雨イワシ、初めて聞いたけど今が旬だと説明を受けると試してみたくなる。ウニも良いがまずはお寿司をたらふく味わいたい。

「そしたらまずはイワシの握りをお願いします。あと、お寿司に合うオススメのお酒はどれになります?飲みやすいものが好きなんですけど。」
「魚との相性が良いのはやっぱり日本酒ですね。特に伯楽星なんかは飲みやすいです。」
「あ、じゃあ伯楽星も一緒にお願いします。」

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会話をしていたら注文が終わっていた。そんな感覚だった。寿司屋の板前さんはなんとなく堅苦しそう、というイメージを持っていたが全くそんなことはなかった。岡田さんはフランクに話しかけてくれるし、魚やお酒の話はもちろん、世間話にも付き合ってくれる。カウンターの端に座っていた2人のお客さんは、野球の試合結果で盛り上がっていて、岡田さんも一緒に会話を楽しんでいた。しかも、野球の話で盛り上がっているお客さんたちは、一緒に来たわけではなく、お互い野球好きということが発覚して意気投合したらしい。

なるほど、カウンター席は板前さんとの出会いもそうだし、お客さん同士の出会いが生まれる場のようである。こんな夜中の寿司屋で肩を並べて座ったのも何かのご縁、ということで会話をしたらますます共通点が見つかった!だなんて。今日という夜が二人を結びつけてくれたと思う他ない。

イワシの握りは岡田さんのいう通り、絶品だった。しかも、伯楽星は寿司を邪魔することがない。旬を迎えた美味しいものと、料理を引き立てるお酒だけでお腹を満たすことがこんなに幸せなこととは。近頃忘れていた感覚だった。せっかくだしもう少しお酒と肴をもらおうかな、と考えていた時だった。岡田さんからまた声をかけられた。

「日本酒、お好きなんですね。実は、今日お店に届いたばっかりの日本酒があるんですけど、どうですか?一緒につまみもお作りしますよ。」
そういって、グランドメニューに載っていない日本酒を見せてくれた。いわゆる隠し酒だ。

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「今回は鶴齢とひと夏の恋が手に入ったんですよ。どちらも夏にぴったりなお酒です。」
「ひと夏の恋!?面白い名前ですね。」
「ひと夏の恋は、甘口で甘酸っぱい夏の日本酒なんです。甘酸っぱい恋のような味だから、そういう名前がついたんですよ。鶴齢は新潟の地酒ですね。」
これは……試したい。どちらも気になるが、仕事に明け暮れる私が選ぶべき選択肢は明確だ。
「そしたらひと夏の恋をください。」

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すごい、お酒がどんどん進む。お酒が美味しいのはもちろん、一緒に出してくれるつまみがこれまた良いのだ。つまみに関しては完全に岡田さんのおまかせにしたが、リクエストをしても良いらしい。これはどちらでも楽しめそうだ。ひと夏の恋を飲み終える頃、岡田さんに問いかけた。

「このお店って、メニューに載ってないお酒もあるんですね。」
「そうなんですよ、季節によって美味しいお酒とか、オススメしたいお酒は変わりますし、たまにしか手に入らないお酒もあります。だから、メニューには載せてないです。そういうお酒はさっきみたいにカウンターで会話している中で紹介したりオススメしたりしていますね。」
「ということは、隠し酒はカウンター席の特権ってことですね?」
「そうです。多くの方は板前のいるカウンターって、敬遠しがちだと思うんです。でも、お寿司屋さんを楽しみ尽くすならカウンターがオススメなんですよね。特に、今みたいな深夜帯だと板前が忙しくて手が空いてない、ってこともない。そうなると、カウンターでの会話のキャッチボールも盛んになる。会話が盛んになれば板前がお客さんの好みも把握しやすくなるからいろんな魚やお酒をオススメしやすくなる。すると、お客さんにますます食事を楽しんでもらえるんですよねぇ。深夜の寿司屋に需要があるって僕も聞きますけど、きっとそういう部分が大きいと思いますよ。それはお客様が今、一番実感しているかもしれないですね。」

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そう言われて、全て腑に落ちた。入店したときから今まで、私は終始ゆったりと過ごすことができた。それは店内が混んでいないからだ。ゆったりと食べたいものを決め、ゆったりと板前さんと会話をし、ゆったりと食事を楽しむ。それらは慌ただしい日々を過ごしているうちに忘れていた時間だ。そして、それは深夜の間だけ実現する、幻のような時間であることに気づかされた。

「はい、この時間にお寿司屋に来たのって初めてだったんですけど、すごく満足しています。この時間だからたくさん岡田さんとお話できましたし、会話したおかげでオススメの握りやお酒を存分に味わえました。今夜はごちそうさまでした。また深夜に来ます。」

夜は短い。まだ見ぬ素敵な店と出会うために私は板前寿司江戸を後にした。まさか一軒目からこんな出会いがあるなんて。寿司屋にはこれまでに何度も行ったことはあったが、今日の夜みたいな経験は初めてだ。深夜の寿司屋、クセになりそう。会話と食事が織りなす本当の寿司屋を楽しみたいなら、深夜に来るのが一番なんじゃないかとすら思う。これを知っただけで今夜はすでに大収穫だ。

私は軽い足取りで夜の街へ繰り出した。